日本語では漢字とかなを混ぜて書くのが一般的ですが、他の誰かに物事を伝達しようとするときは、常用漢字の範囲内で書くのが基本です。
しかし、常用漢字の中でも複数の表記が認められている場合があります。顕著なのが訓です。始末が悪いことに、複数の漢字に対して同じ訓が当てられ、意味によって使い分けることになっています。そのため、いざ文章を書こうとするときに、どの漢字で書くべきか迷うことも少なくありません。
例えば、常用漢字表では以下の4字に「かえる・かわる」という訓が掲げられています。
変、替、換、代
これらの漢字は意味によって使い分けることになっていますが、どの漢字を選択するかは大変微妙な問題であり、ときに複数の表記のいずれも使えてしまいます。例えば「きりかえる」に対して「切り換える」と「切り替える」の2通りの表記が可能であり、実際にインターネット上の国語辞典「デジタル大辞泉」ではどちらの表記も掲げています。
どの表記で書くか
このように複数の表記が掲げられている場合、どの表記でも好きなように使用してよいのでしょうか。それとも、いずれかの表記に限定して使用すべきでしょうか。限定して使用するなら、どのような考え方で判断したらよいでしょうか。
日記のように、自分一人だけのために文章を書く場合は、特に表記にこだわる必要はありません。自分の書きたいように書けばいいのです。後で読み返してわけが分からなかったとしても、困るのは自分一人ですし、社会的な損失が発生するわけでもありません。
しかし、他の人が読むことを想定するなら、文書の中で表記を統一しておくと、全体として整った印象に仕上がります。情報が検索しやすくなるという利点もあります。
特に表記がばらつきやすいのは、複数の人が分担して書く場合です。ばらつきを抑えるために、対外的に配布する文書を作成する際のガイドラインを定めている組織も少なくありません。特に、新聞各社は記事の書き方を詳細に定めて、どの記者が書いても同じ書き方の原稿が作成されるようにしています。つまり、工業製品を製造する場合と同じ考え方で文章を書こうというわけです。新聞社が定めたガイドライン (用字用語集) は書籍として一般にも販売されており*、出版社や一般企業でもガイドラインとして利用されています。
* 共同通信社は「記者ハンドブック」、朝日新聞社は「朝日新聞の用語の手引」、時事通信社は「最新用字用語ブック」という名称で出版しています。
組織の一員として文章を書く場合は、ガイドラインが定められていれば、そのガイドラインに従って書くことになります。ガイドラインが定められていなければ、自身で適切な基準を設けて書きます。記者ハンドブックなどを基準にしても構いませんし、他の基準を設けても構いません。重要な点は、基準が明確であり、一貫していることです。
では、ビジネスメールの場合はどうでしょうか。
ビジネスメールの場合に厳密な表記が求められることは、まずありません。メールの目的は迅速かつ正確な意思疎通です。読み手は表記の統一まで期待していないのです。ですから、これから書こうとするメールの表記を1カ月前や1年前のメールとそろえても、神経を使う割にほとんど実りがありません。細かい表記に注意を払うより、伝えたい事柄を分かりやすく書くことに注力すべきです。
考慮する点は多方面にわたります。
- 読み手の範囲 (特定のグループ、不特定多数、など)
- 読み手の人数 (少数か多数か)
- 読み手に要求する語彙や漢字の知識
- 読み手に与える印象
- 書き手の人数 (一人か複数か)
- 書く期間 (短期で完結するか、長期にわたって書き続けるか)
- 書く目的 (情報の伝達や記録、文学表現、など)
- など
例えば、企業の広報担当者が社外に配布する広報誌を作成する場合は、広報誌の規模にもよりますが、
複数の担当者が分担する
ことになるでしょう。書く目的は
不特定多数の人に正確に情報を提供する
ことですから、
広報誌の中で表記を統一する
難しい語彙や漢字を使用しない。当て字も使用しない
ことを念頭に置いて書きます。制作する広報誌は社外に配布しますから、表記のガイドラインがない場合でも、
過去に配布した広報誌と表記を整合させる
ように注意します。
あまり頻繁に出てくる語句でなければ、表記が統一されていなくても不整合が目につくことはありません。しかし、複数の人で分担して制作する場合は、最初にガイドラインを定めておくと表記に迷うことがなくなり、スムーズに制作できます。例えば、記事の執筆者と校正担当者で表記についての考えが異なると、無駄な修正が発生してしまいます。
複数人で分担せずに一人で書く場合でも、文書の中で表記を統一しておくに越したことはありません。一定の基準を定めておくことで、過去の広報誌と整合させられます。
用字用語集の利用
表記の基準として、新聞各社の用字用語集を利用することもできます。
前述のとおり、新聞社では多くの記者が記事を書きます。誰が書いても同じ書き方の記事になるように、新聞各社では表記の方法を決めて、用字用語集としてまとめています。新聞はさまざまな分野の記事を載せるため、用字用語集も広い範囲にわたって詳細に表記を規定しています。普段使う言葉はすべてカバーしていると言ってもよいでしょう。
ただし、注意すべき点が1つあります。
新聞社の用字用語集が有力なガイドラインであることは確かですが、用字用語集がすべてというわけではないことです。特に、下記の点には注意する必要があります。
- 多数の記者に画一的な文章を書かせる目的がある (工業製品の製造と同じ考え方)。特に、複数の表記が可能な場合に1つの表記に固定することで画一化している
- 少ない文字数で多くの情報を伝える目的がある
- 表記に対してさまざまな見解がある中での妥協点に過ぎない
- ときには無理な書き換えや言い換えがある。例えば、常用漢字表にない漢字を、意味の違う別の常用漢字で無理に書き換えていることがある
ありとあらゆる場合に適用すべき基準ではないのです。
例えば、数名のチームの中だけで使用する書類や、取引先の担当者とやり取りするメールの場合は、画一的な文章でなくても構いませんから、表記の上では難しい語彙や漢字、当て字を使用しないようにする程度で十分です。もちろんこの場合でも新聞社の用字用語集を適用できます。しかし、どんな場合でも用字用語集を適用しようとする姿勢は用語集至上主義です。
ときには、文章を読んだ相手が漢字表記の誤りを指摘してくることもあるでしょう。その場合の反論として、○○新聞の用字用語集にこのように書いてあるからこの表記で正しいのだ、と主張したくなるかもしれません。しかし、それは紛れもない原理主義です。 そして、その反論の結果として相手が用字用語集を絶対視するようになったら、迷信の信奉者が1人増えたことになります。 こうなるとカルト宗教と紙一重です。
用字用語集は聖典ではないのです。
ではどう書くべきか
さて、当初の問題に戻って考えましょう。「きりかえる」を「切り換える」と書くか「切り替える」と書くか、という問題でした。考え方は前述のとおりです。
- 新聞記者として共同通信社向けの記事を書く場合は「切り替える」。 共同通信社の記者ハンドブックには「切り替え」と載っています。
- 論文を投稿する場合や、雑誌などの刊行物に寄稿する場合は、その編集部の基準に従います。企業の広報誌も同様です。翻訳の場合も同様に、依頼主の定める基準に従います。特に基準が設けられていない場合はいずれの表記でも構いませんが、文書全体で統一する必要があります。
- 専門用語など、業界で特定の表記が決められている場合は、その表記に従います。 例えば、文部省学術用語集 電気工学編 (電気学会刊) では「きりかえ」に対して「切換」という表記が掲げられ、切換盤、切換母線、切換開閉器などの用語が示されています。回路の接続については「切り換える」と表記するのがよいでしょう。
- ビジネスメールを書く場合は「切り換える」と「切り替える」のいずれでも構いません。
- 文学作品を執筆する場合は、表現の意図に応じて自由に表記できます。「切り換える」と「切り替える」のいずれも使用できますし、他の漢字表記やひらがな表記も選択肢に入ります。
表記は、時と場合に応じて使い分けることが肝要です。不便でしょうか。私は不便だと思います。こんなことに神経をすり減らしたくありません。しかし、これが日本語の現状なのですから仕方ありません。