翻訳テクニック集 目次

日本語の表記法

言葉には、大きく分けて2つの機能があります。1つは表現の手段であり、もう1つは伝達の手段です。このほかに記録という機能もありますが、これは時間を越えた未来への伝達と考えて、伝達に含めることにします。

表現の手段として言葉を使用する場合は、かなり自由な言葉の使い方ができます。対照的に、伝達の手段として言葉を使用する場合は、相手に伝わることが第一の条件となります。仕事の場面で、伝え方が曖昧であったために誤解が生じた経験をお持ちの方も多いことでしょう。慌てて取ったメモを数日後に読み返したところ何が書いてあるか分からなかったというのも、時間を越えた伝達の失敗です (先ほど記録を伝達に含めたのはこのような理由からです)。

技術翻訳で求められる機能は、もちろん伝達機能です。具体的には、元の言語で書かれている内容を対象言語で正確に伝達することです。情報を正確に分かりやすく伝達するために、多くの人に伝わる文章の書き方が求められます。この点が文芸作品の翻訳と大きく異なる点です。文芸作品では凝った表現や難しい漢字を使用している場合もありますが、技術翻訳でそのような表現をすることは一般に認められません。技術翻訳では、辞書を引きながらでないと読めない訳文はNGです。辞書を引くのは面倒です。読んでいる途中で分からない言葉が出てきても、多くの人は「たぶんこんな意味だろう」と勝手に推測して読み進めることでしょう。楽に読めるようにしなければ意味が正確に伝わらないのです。

多くの人に伝わる訳文を書くには、誰もが読めるやさしい表記を使用する必要があります。

クライアント (翻訳の依頼主) によっては、スタイルガイドを制定して文章の書き方を規定していることがあります。その場合はその規定に従って訳文を書きます。クライアントから特にスタイルが指定されなかった場合は、多くの人が読んで理解できる、広く一般に受け入れられている書き方をします。

重要なポイントは、自分の好みではなく、広く一般に使われている表記を採用することです。

例えば、他の言語から日本語に翻訳する場合は、多くの人が読めるように、使用する漢字は基本的に常用漢字の範囲内にとどめ、難解な漢字や当て字は避けます。副詞や補助語はかな書きにします。そのほか、書籍や新聞・雑誌などで広く使われている表記を採用します。そして、その表記を訳文の中で一貫して使用します。ある箇所では漢字で書いているのに別の箇所ではかな書きにしているなど、表記が揺れるのは好ましくありません。表記が揺れていると、検索・置換にも不便です。

ところが、日本語は書き方が大変難しい言語です。特に、漢字とかなを混在させて文章を書くことから表記が大変複雑になっています。ともすれば誤った表記をしたり表記が揺らいだりしがちです。

例えば、日本語では「かえる」を「変える」「代える」「替える」「換える」と書き分けます。もともと語源が同じであるにもかかわらず、です。このような書き分けをする言語は他にありません。さらに悪いことに、どの表記が正しいか、人によって見解が分かれる始末です。

表記を安定させるには、市販の用字用語集を参考にすると便利です。用字用語集は各社から出版されています。共同通信社は「記者ハンドブック」、朝日新聞社は「朝日新聞の用語の手引」、時事通信社は「最新用字用語ブック」。ほかにNHKも用字用語辞典を出しています。

各社の用字用語集はほとんどの部分で内容が共通していますが、微妙に異なる点もあります。しかし、どれが正しくてどれが間違っている、というものではありません。言葉はそもそも曖昧なものであり、正誤の絶対的な基準があるわけではないのです。

例えば、先ほどの「かえる」は辞書や用字用語集によって表記の見解が分かれます。例えば、共同通信社の「記者ハンドブック 第12版」では かえる・かわる
 代〔代理、代表、交代〕あいさつに代えて、命に代えても、……(以下省略)
と「命に代えて」を採用しています。対照的に、デジタル大辞泉 (2022年3月29日閲覧) では以下のように「命に替えて」と記載しています。 か・える〔かへる〕【換える/替える/代える】 の解説
[動ア下一][文]か・ふ[ハ下二]
…(中略)…
5(「…に替える」の形で)…を犠牲にする。…と引きかえにする。「命に―・えて子供を守る」
……(以下省略)

人によって正誤の基準が異なるのが当たり前、という日本語の実情は困ったものですが、何とか対処するしかありません。翻訳の際には、明確な基準を1つ決めて、その基準に従えば十分です。

表記については、別項でさらに詳しく解説します。

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