他の言語から日本語に翻訳する場合に安易にカタカナに置き換えると、意味不明な訳文になってしまいます。
2010年代に入って、ビッグデータを分析してinsightを得る、という説明をよく見るようになりました。このinsightは日本語に翻訳しにくく、そのままカタカナで「インサイト」と置き換えられていたり、「洞察」などという訳語が当てられていたりすることもあります。insightの訳し方で悩んだ経験をお持ちの方も多いことでしょう。
しかし、洞察とは妙な訳語です。インターネット上の国語辞典「デジタル大辞泉」によれば、洞察とは「物事を観察して、その本質や、奥底にあるものを見抜くこと。見通すこと」であり、人間の心で行うニュアンスが強い行為です。データを統計的に解析して規則性を抽出するのは洞察ではありません。その証拠に、論文で「……を洞察した」「……の洞察を得た」とは書かないものです。データを解析して「知見を得る」なら、よく使われる表現であり、日本語として定着しています。
私が翻訳する場合は「洞察」や「インサイト」といった安直な置き換えを避けています。名詞として翻訳するなら「気づき」「知見」(を得る) などと翻訳します。
必ずしも原文の名詞を訳文でも名詞として翻訳しなければならないわけではありません。insightは学術用語のような明確な定義のある言葉ではないので、自由に翻訳できます。動詞として訳出して「見出す」「見通す」「(情報を) 浮かび上がらせる」とすることも多いです。
新聞にこんな記事が出ていました。
ビッグデータ解析「京」が世界一維持
スパコン性能ランク
理化学研究所などは十三日、スーパーコンピューターが大量のデータを処理して有用な情報を引き出す「ビッグデータ解析」の性能ランキングで、日本の「京」(神戸市) が、中国の新型機「神威太湖之光」を抑えて世界一位を維持したと発表した。…(以下省略)…
ビッグデータ解析を、大量のデータを処理して有用な情報を引き出すことと説明しています。「有用な情報」という言葉に注目してください。
この記事は国内の一般紙 (中日新聞2016年7月14日朝刊) に掲載されたものです。理化学研究所の発表ですから、日本人の記者が最初から日本語で書き下ろした文章です。外国語の記事を翻訳したものではありません。
上記の記事にある「有用な情報」は、図らずも私が過去の翻訳でinsightに当てた訳語です。「有用な情報を引き出す」を英語で書くならgain insightです。ところが、このgain insightを日本語に翻訳するとなると、なぜか「洞察を得る」になってしまうのです。
リーダーズ英和辞典 (初版) を引いてみると、確かにinsightの訳語として「洞察 (力)」が挙げられています。しかし、上記の記事にあるとおり、日本語ではこの意味で「洞察」と言うことはありません。「洞察」と言われてもピンときませんし、違和感ばかりが募ります。
安易な訳語を羅列したページを読まされるユーザの胸の中には、このような小さな違和感が次から次へと降り積もります。「外資系の会社のWebサイトって、一応漢字やカナが並んで日本語のような形はしてるけど、読んだ後に頭の中に何も残らない」という声を実際に聞きます。小さな不満が積もり積もって製品への不満につながらないように、何らかの対策が必要でしょう。少なくとも、企業の顔、営業の窓口ともいえるWebサイトには、あまり安易な翻訳を並べたくないものです。
辞書にある訳語を当てはめても日本語になじみませんし、カタカナに置き換えればよいわけでもありません。新しい概念を日本語に取り込むときには、意味をきちんと伝える翻訳を考える必要があります。
しかし、このような翻訳者はごく少数のようです。日本語になじむ訳を定着させたいと願っても、多勢に無勢、徒手空拳。その間に妙な訳語が日本にあふれて、デファクト スタンダードとして定着してしまいます。悲しいことです。